イエローダイヤ・マン《標榜編》〔256〕普段通りでいたなら麻央さんは誕生日だった。若くして亡くなった彼女のひたむきな気持ちは今なお生きて若者の精神力の源として命のバトンを絶やさずいる。彼女が亡くなってもサイトは残り永遠に彼女のありたかった自分の命の灯火は継続されて俺の気持ちも強固になる。母として女性としてこうありたかったとする強いパートナーシップを彼女は最期、海老蔵さんの妻として自覚しそれを支えとした。今ある医療の現場ではまだ癌の全快は難しくて早期発見を善処軸として動くしかない癌最前線だろうか。ここまでの苦悩の女性史を自分のおおらかなる精神力で見事に開花させた例を俺は見たことが無く、小さい頃読んだ、ヘレン・ケラーの本に次ぐノンフィクションだった。しかも彼女の場合は若過ぎて、その美しさや切なさが我々の悲嘆を倍増させたし、夏目雅子が亡くなったときも同位だった。俺の中で寿命というものが、そして余命というものが今雄しべと雌しべのように立ち上がる。女性の平均寿命を考えると彼女が五十年と、半世紀は早く逝ったことは自明だ。しかしそれをしてもよくぞこんな短い時間、限られた時間の範疇に於いてみんなに発信してくれた快挙を思う。子育てで泣く人間、身勝手に嘆く人間、そして子育てで苦悩して今どうあるべきか?全部彼女が教えてくれるだろう。