イエローダイヤ・マン《標榜編》〔128〕運命の劇的進化によって恋に巡り会い、そしてふたり蒸すばれる。いや・・・結ばれるだ。そういった夢のような計らいが俺には当分来ないしそれも現実として見えて来た。相当分の配慮や試算がないと恋が向こうから来る訳も無く俺は事実上の恋からの撤廃宣言を出した。しかしフシギな思いもある。同窓生が次々に結婚を決めて俺はなんとなくそれでも幸せなんだ・・・という法外な満足でそれ以上でも以下でもなく、これから家庭に縛られる彼らを凌ぐ奮発力を俺は自分の中で認めうる位置にいる。家庭を持つということは囚われるということで、文豪たちはこぞって、家庭内に納まることに抵抗した。このニッポンでは良妻賢母が下敷きになって、そこから派生した耐える女やおしん路線が賞賛を浴びた。マディソン郡の橋を執筆した彼が若くして亡くなったことが本当に惜しい。七十代で亡くなると若いと俺はそう思ってしまう。まだまだ、七十といえばコレカラ・・・という時期だからだ。チャタレイ夫人の恋人から八十年、その頃にはどんな映画や小説が?という過去からの遺伝子が地球を染め上げた。マディソン郡の橋こそがクリント・イーストウッドを一大開花させた作品となった。アラクレ者や無情の戦士とは違う側面を見事に描き出し、男が恋にうつつを抜かす生き物である証明をやってのけたのだ。