ルビー・ウーマン《ジーニアース編》〔147〕過保護になって、どんなことにも果敢になれる精神を殺ぐことは逆効果をかもし出すし、シゲルちゃんのハングリー精神もわかります。大きな精神的岐路に今、ニッポンが置かれていて、その雄雄しい気風と女々しくは無い思慮にキャロルは茫然としてしまうのです。私の思いが伝わってきたのか、家族みんなが何も言わずとも配慮してくれるようになっているし、当時の小学校時代、苺を植えていた小学校の畑が今はキャロルの家が立つ場所になっていて思いを巡らすのです。お隣のロコちゃんだけでは手狭になり今、自分が住むこの辺りがちょうどかつて棲んでいた矢上神社の横からすると辻のようになっていて、家の者たちからすると遠いと言われる範囲のハシリだったのです。走っても追い駆けて来ることが出来なくなるまで、キャロルはこの辻まで来て安堵するのです。親が思っている範疇内という規格が嫌だったことと、トムソーヤの冒険でした。あの冒険が余りにもこころを刺激して、これがアメリカの小説家がしたためたものであることにも直感を感じます。冒険無くして、一体何が得られるだろう。偉人物語以外に、にんじんや像の花子を読みます。ベニスの商人、青い鳥も・・・。こうやって観ていくと見えてくるものがありますね。