佐賀人のケチは、見るからに嫌だ、真綿で首を絞められているようだって、感じるなら、セレブセイヒン〔競部清貧〕ののぼりは立てられない。まず、競部ってことの真髄は、人様のお役に立てる自分であるかを競うのよ。自分を塗りたくって、おしゃれ気分をかもし出すことじゃあないんだ。人様っていうのを天下だとする。ここにいるすべての人々にまず、キャロは生きているんだよ!ってことを宣言した段階。ここまでは、誰にでも出来るんだ。問題は過去の戦争の清算なんだよね。一万枚の原稿の中で、新聞で採用になった、従軍慰安婦の問題、もっと、日本は姿勢を変えなくちゃってのは、確かに採り上げられた。この万にひとつっていう可能性にキャロは賭けているんだ。つまり、編者はキャロがこういった社会問題に明るくて、何度も書いてきた人間であることを、全く知らないで採用掲載したんだ。しかし、この問題には、深入りしたくはないなあっていうのがあったんだろう。書くことが常時可能で、出来る人間だからこそ、新聞がキャロを、ずっと干したってのはある。だから、投稿コーナー見て御覧。いい子ちゃんの意見、学級委員長のような、ごもっともの意見ばっかじゃん。未来への提言をこれから、キャロと作っていく人々の中には、地方新聞社の記者達が必ず混じってるはずなんだ。新聞の危機は地方から来る。危機感を持ってなあきまへんでえ。キャロの事案で猛省して零からやり直すっていう地方新聞なら、コレカラお手伝いが可能ってことだけは言っておこう~