アクアマリン・マンa37 俺が日曜日にこうして週一回鞭撻を奮うとはいっても、俺の中身は空っぽ。それなのになぜ、多くの期待や好奇心が集まってくるのかも未決である。ただ、アイデアをどこかで貰えるかも?っていうのはあるかもしれない。俺も以前は喧しいニュースを手当たり次第に読んでいた時期があった。しかしニュースソースとは完全におさらばして、自分なりに開墾した土地の評価格に実は驚いている。これは自慢でも何でもなく成果に値する。例えばニュースソースを片っ端から読んだとする。完璧な視野を装備したとはそこでは言い切れない。矛盾の部位が必ず生まれる。なぜなんだ?と疑問に思ってもそれを噛み砕いて教えてくれるブンヤはどこにもない。自分の資質が正しく問われる場面で、それなら?と僕は操縦かんを別に握り直したという訳だ。今回のコンビニ問題でもそれが露になった。店で食べる人間とそうでない人間をどうやって振り分ける?皆目見当もつかないなあと言ってる連中の後ろでは押し黙ってはいるものの、ほっとした顔でいる奴らも存在する。この凹凸を読めない人間はニュースの世界ではまだ未成年と言うしかない。ニュースソースの生き残りは今後ますます熾烈を極める。そこで勝ち残って行くような素質があったなら、別の意味で新しい言論が開花するだろう。目先の器用さだけで生き残っていける世界ではない。