イエローダイヤ・マン《標榜編》〔287〕本を享受しその真価をわかろうとして俺はまずそこで受け入れ可能だろうか?を吟味する。確かにいいことは書いてあっても拒否することもあって、それがどんな時になるか?その時の気分や時代の傾向もあると思う。これだけお笑いが位置を強固にしたのも俺はこの現代の若者が楽しさを満喫してはいない証拠になると負の方に捉えていてただ、今の時点で深刻に捉えないふりをしているだけで、問題は深層に沈殿している。今の若者には、恐怖に似た怖れがあるのだ。それは恐らく漠然としたものでこれからを生きることに正直な余りそうなっていると分析する。自分達が何を言ってもそれが世間では取り上げられることがないにも等しい、しかし、その諦めが払拭されていろいろ意義あるサイトが方策満載でやって来た。これが監視社会?というよりいい方に若者は受け止めた。そのことが忖度以外の何物でもないと俺は安堵する。中国が引き締めに動きここまで監視するようになって大学の論文でさえ、どこぞのサイトを経由しないとおぼつかないことになって来たとき、対岸の火事とはいえない様相のニッポンだ。中国の民主主義に言論の自由にどこかで関与していたいニッポンである。