ルビー・ウーマン《ジーニアース編》〔193〕誰もがそうであるように東京に憧れる子供達の思いは格別で、故郷の意味を噛み締めながらも自分達よりもより高度な勉強をすでに受けているのでは?との推理はあって、長崎でも特に田舎の小学校に通っていた関係上、学力を気にする父は本当の教育のレベルをどうやら統一したもので押し量っているようで緻密だなと思うのです。しかしその基準をまだよくわかろうともせず、ただ漠然と思っていたのは、教育の傾向で理数関係に強い頭と文系に合った頭があって、分け方が基本あることは明瞭だったのです。しかし物足らなさも感じます。理と数が合体し連携しているのに反して文は心持ち不如意なのです。漢字力や朗読、そして読解力、一体何をもって文系としているのか不明瞭だったのです。音楽はどっちに入る?って思っていたキャロルは数学の出来る少年が音楽も出来るのならわかる気もして、逆もしかりだろう・・・音楽が出来ても理科には弱いのです。こういった論争はまだその頃は尚早で一体何をもって優秀とするかの定義自体が定まってはおらずちょうど1966年頃といえば、田舎の小学校なら全体を通しての優秀児を通知表が標榜していたと思うのです。理由はわかりませんが通知表でほぼ5を獲っていて4がまばらなら、そのものズバリ優秀児だったのです。教育の過渡期といわれるのはそれよりも後になりますね。