いじめに負けない人生論は今週も涼しい顔で闊歩していく。誰も自分の陣中に入れなかったから涼しい?そんなことはサラサラない。いつでもみんなへの門扉は開いているし、何の差別もない、そういう流儀のもとにキャロルはいて、イジメを総括出来る立場にいるのも子供を五人育てたからだ。苛める方にいた子供でさえ、苛められる時節に突入したりで、その推移翻流は計り知れなかった。いわば苛めという物体は独自にアメーバのように動くのだ。今日苛めていたからといって明日は?そこは断定出来ず、動くいじめ軍団といかに対峙していくかが見極めの根底にある。苛めている側は本当は怖いのだ。いつ、まな板の上の鯉〔故意〕になるか?そこが聡明なら聡明なほどにわかっている構図だ。本能ではすでに観念していて聡明で有るゆえ納得も速い。いじめが行こうとする着地点が読めている。すでにジタバタしているのなら加害者だろうし、苛められた側は涼しい顔でいられる場面だ。この両者をわかっていないとまずい。苛められた方が俯いたりするから物事が見難く〔醜く〕なってくるのだ。