イエローダイヤ・マン《標榜編》〔103〕数奇なことに気が付く。人は無意識の内にも自分の将来を言い当てるという究極の論で俺はその存在を承知しながらあえてしたためることはやらずに来ている。本人は元々、意識的に言うこともあって、自分の都合のいいようにいう。その事が俺の信用感をストップさせていた。単なる偶然に違いない!と。しかし最初それを知ったのは遅いと言うなかれ、平幹二郎が親友の為に棺を前にしてお別れの言葉を述べているとき・・・。しばらくもしないうちに僕もいく・・・と。俺はそのあと暫くして彼が逝ったという報を見て、この自分のことを予言するの題一幕なのでは?と思ったが気に留めた分、そういうことをしたためる気にはならなかった。当然だがみんなに向けて言った言葉というのが前提になるので、どうしても無理があると思ったのだ。個人で無名の場合はどうなる?と。日誌や日記などを後で見て身内が気が付く・・・そういった事例も今後は出てくるだろう。俺はそういう予言をこれまで、偶然の一致だと決めスルーしてきた方だ。しかし山本五十六の語録集を読んでこうあるのだ。最初の一年半は暴れてみせましょう・・・しかしと。驚くなかれ、彼は開戦後ほぼ一年半後に亡くなる。こういった自分の未来を無意識にも予知して語る、知らせるそういう文学も今後はありかもしれない。