ルビー・ウーマン《ジーニアース編》〔161〕人生の中で小学校時代ほどミラクルパワーに満ちている世界はなくこの世界をいかに読み解くかで相当の時差たる頭差が出てくると見ていいでしょう。いわばマルチ力です。すべての素養と発議がこの時代にあるのならなぜ伸び伸びと暮らさせないのでしょう。思いっきり外の空気を吸って遊ぶ。そこには若干の危険もあって怖いわ・・という向きは現代社会にはあって、当時にはそこがありません。危険があっても気が付いていなかったという図式。キャロルは一時ですが、矢上神社に住み着いた人間がいることを察知してよく観察に出掛けていました。ホームレスのはしりのような人物だったのですが意外にも周りが柔らかな対応でその人物はしばらく矢上神社の中のお御堂まで入り込み暮らしていて、当然ながら幼心を刺激してきました。時代がどう対応するのかミモノだったからです。冷たく接するのか、排除する時期を見定めているのか、それとも見て見ぬ振りをして時間を稼ぐのか、そういった選択をいずれ将来迫られるとするならここが観点だったし、相手は危害を加えてくるわけではなくこっそり住み着いてしまった例なのです。キャロルは大人の対応で父が接したことを覚えています。じきに自分の家に帰るのさ・・・神社もですが、キャロルにはその対応こそが有識者の傾向と思った記憶があるのです。