昭和31年、西暦1956年、10月というと、キャロルが0歳。ちょうど生後三ヶ月になるかならないかのとき、あの三島由紀夫金閣寺は最後の言葉はこう終わる。・・・・・・生きようと私は思った。これなんか、思いがけない発見でびっくりしたんだ。そういう結末だと弟が協調するにも反して、昭和45年、西暦1970年の割腹自殺。この間に何があったのだろうか・・・。奇しくも、その11月25日は脇田大佐の命日、霜月沈没の日と重なる。弟は姉貴が生まれた年に、生きようと私は思ったというのは、本当の思いだろうし三島作品に生きるという言葉自体、みずみずしくて驚きを隠せないと。しかし、この14年間の間に彼の中で構築されていった俗に言う憂国論はむしろ解析されて久しいからあえて追わず大切なのは彼の潮騒だ!!あのときの純粋な気持ちの発露を私は愛でたい。あなたは純粋な考えを持った将来性あるニッポン男子だった、1954年に発表のこの作品こそが、彼の原点であると思うことにした。いろんな意味で、もしも考え方を少し多角的に持てたら、彼こそが日の丸ニッポンを牽引出来た。しかしそれが出来なかったゆえに最高の文学者でありえたと今、思うのだ。